あっさり手放さない、という読み方
昨年11月から初めているFILTR人類学講座「人類学の古典に親しむーメアリ・ダグラスというエアポケット」では、人類学の古典の一つ『汚穢と禁忌』を読み進めている。12月で5章までの前半が終わった。
受講生の幾人かの方から下記のような嬉しいレビューが届き、試行錯誤の中にいた私も少しだけ胸を撫で下ろしている。
最近読んだ本は、どれも最初から最後まで読んだら終わり。忙しければ太字だけを読んで終わり。読み返すことはなく、手放してを繰り返していました。しかし、『汚穢と禁忌』は、あのページに戻ってみよう、この何気ない一文が○章に繋がるのか、と新たな発見を繰り返しています。むしろ繰り返し読まずにはいられないです…最初は、厳しすぎて歯が立たなかった本文も2回目3回目と読むうちに柔らかく感じられるようになりました。理解が少しずつではありますが積み重なっているのかなと思うと嬉しいです。
古典の面白さは時間差でやってくる
これまで開講した「他者と関わる」や「聞く力を伸ばす」と異なり、今回は1冊の古典を読むという硬派な内容。かつ前半(1〜5章)と後半(6章〜10章)の両方を受講すると全10回。なので、募集をしても人が集まるのかわからない中、講座の準備を1年に渡り続けた。
幸い受講者は集まってくださったが、集まればいいというわけではない。問題はその先。
『汚穢と禁忌』は全く読みやすい本ではないため、四苦八苦する人が続出。ポイントはかなり噛み砕いたつもりではあったが、「講座を受けるとわかった気がするが、後から振り返ると自分では説明できない」、「講座はわかったが本はわからない」といったご意見も終わった後届いた。
「わかったようでわからない」感じを一掃する方法は実は存在する。
それは、『汚穢と禁忌』の該当箇所を事前に読んでくるというスタイルをやめ、「講座に出席さえすれば『汚穢と禁忌』を理解できます」という形にしてしまうことだ。
私自体が「要約サイト」と化せば、講座が終わった後の「わかった感」は倍増するし、(原典を読んでいないのだから)原典を読んでしまったゆえのもやっと感もゼロである。
人類学をやったことがない人に向けての講座なので、それで十分と言えば十分だし、そういう学びもありだと思う。
が、今回提供したかった学びの形は、「すっきりわかった。おもしろい!」ではなく、「わかるところが増えた。今読むとわかる。面白い!」という古典ならではの「じわじわ感」だった。
ただ「しばらくして読むとわかりますよ」と私が言ったらおしまいだろう。それは教えることの責任から逃げてる。
なので私自身はできる限り1回で理解できるような内容を作り、「じわじわ感」が現れるかどうかを待つというスタイルになった。
だから上で紹介させていただいた、「本文が柔らかく感じられるようになりました」といった言葉には救われるし、こう感じてくれる方が確実に複数出初めていることが、この講座の進むべき方向を示してくれていると感じている。
古典を読むのに「早すぎる」はない
講座サイトにも書いたが、これは初心者向けの講座。だから、初心者に『汚穢と禁忌』は難解すぎる、という意見もあるかもしれない。でも私はそう思っていない。読みたいと思った時が、その時だと思う。
流石に初心者が「3回転宙返りに挑戦します」といったら、「死ぬからやめて」と止めるだろう。でも古典でそれは起こり得ないんだからやってみればいい。
また私自身が、留学中に生理学から人類学に専攻を変え、学部がないまま修士に入り、そこでいきなり読まされたのが人類学の古典論文集(当然英語)だったことも、そう考える理由。
第三者的に決められる古典の「読みどき」なんてない、と私が考えている。
実際、古典を初めて読んでいる方からこんなご感想もー
あまりの分からなさに「私にはやっぱり無理だったかな~」と思いつつ前半スタートだったのですが、講座を受けて再読して、どんどん読めるようになってくるという今まで経験したことのなかったことが起こっていて、とても楽しく参加させていただいています。
「今まで経験したことのないこと」が起こる。これは他の誰かに見えていなくとも、自分だけがはっきり感じられればいい。後半もこう感じてくれる人が一人でも増えるよう頑張ろう。
もちろん知らないとわからない背景知識は間違いなく存在し、それらがあった方が通読できる可能性が間違いなく上がる。なのでその辺りは私が提供し、読み進みやすくする努力を続けたい。