突然だが、私はライターの生湯葉シホさん(@chiffon_06)を尊敬している。
インタビュー企画のライターさんで彼女が登場することがあるのだが、仕上がってくる原稿がどれも素晴らしいからだ。
雑多な言葉の中からエッセンスをここまで取り出し、流れる文章によくぞここまで落とし込んでくださったと毎回うっとりしてしまう。
どうやって原稿を書いているのか根掘り葉掘り聞いてみたいくらいだ。
…という経緯があり、彼女のエッセイやブログなどはいつも読ませてもらっている。
昨晩は、LIFULL STORIESへの彼女の寄稿が流れてきた。コロナ感染後の後遺症で長い不調を抱えていることを導入とし、不調を語ることの意味と意義などが、ヴァージニア・ウルフの言葉を引用しつつまとめられている。
ずっと具合が悪かった
実は私は、コロナ後遺症に関して複雑な思いを抱く一人である。コロナは大したことない病気と思っているとか、そんなことではない。
その理由は、30代の前半、私はずっと不調を抱えながら生活をしていたからだ。
どんな不調かというと、1ヶ月に1回といったペースで頻繁に風邪をひく。風邪をひいたら抜け切らず、だらだら咳が出続ける。熱はないけど倦怠感がひどく、研究どころか暮らし全体に支障が出る。その状態が数週間、ひどい時には3−4ヶ月続いてしまう。結果として、具合が悪い状態が年単位で常態化していた。
これに生理がかぶさると凄惨だった。息をして1日暮らしただけで自分を褒めてあげたい。生きるってなんでこんなに辛いんだ。そんな気分になる日もあるほどだった。
医者に行っても、検査で異常が出るわけではない。「そういうこともある」みたいな見解とか、「休養をしっかり」とか、「無理をしないで」とか、そんなよくあるアドバイスをもらいながら、いくつかの病院を回った。漢方医に相談し、いろいろな処方を試したこともあった。それは時によく効いた気もするし、そうでなかった時もある気がする。
ところが不思議なことに、そういう不調は30半ばを過ぎた頃から段々となくなった。結果今私は、人生で一番体調がいいかもしれないと感じながら暮らしている。
なぜ体調が良くなったのか。
私なりの理解はあるけれど、それは本題ではないためここには書かない。今日私が書きたいことは、不調が名付けられることの力だ。
不調に名前がつくということ。
昨年の夏コロナに罹患した。
この病気になった思ったこと。それは、名前がつくことの力である。風邪をひくと不調が長引くことは変わらず続いているので、コロナに感染した時もきっと同じことが起こると予想した。
予想通りの結果となった。熱が下がった後も、倦怠感がずっと続いていた。
「あー、またあれがやってきた」という感じ。
でも周りの反応が違った。まず私の具合の悪さには「後遺症」という名前がついた。そして、30代前半の時とは比べものにならないほど周りが心配してくれた。
正直、心配してもらえて楽になったし、仕事や締切も快く延期してもらえて大変助かった。
でもその度に30代前半の記憶がよみがえる。
私はあの時も全く同じように具合が悪かった。でもあの時は「ストレスじゃない?」とか、「体質じゃない?」とか、「また風邪なのか?」みたいな目線を感じたりした。あの経験は一体なんだったんだろう。
あれだって風邪の「後遺症」だったんじゃないだろうか?
コロナはよく風邪と比較される。「コロナは単なる風邪ではない」ともよく聞く。でも、「単なる風邪」で長いこと大したことになっていた私は、この断定文とどう付き合えばいいんだろう?
名前がつくと、そうでないものとの比較が始まる。これが名前の力。
また、生湯葉さんのエッセイには、後遺症の1つの症状として「ブレインフォグ」という言葉も紹介されていた。サイトの説明によると「脳に霧がかかったようにモヤモヤとして、思考力が低下してボーっとしたり、目の前のことに集中できなかったりする症状」がブレインフォグ。
もしあの時の私の症状が何かの「後遺症」であると認定され、論文がたくさん積み重なってエビデンスもあるとされ、抱えていた倦怠感を「ずっとだるい」じゃなくて、「ブレインフォグ」と表現することができたなら、何かが変わったのだろうか。
多分変わったんだと思う。きっと私も、周りも、私の不調を違うふうに解釈し、違うふうに価値づけ、その結果は、私の具合の悪さの「内容」と「感じ方」に間違いなくフィードバックされていただろう。
でも、それが良い結果を生んだのどうかはわからない。名前があればよかったとも思わない。名前はときに深く優しく、ときにえぐいほど残酷だから。
私は名前のつかない不調と共に数年を暮らし、生湯葉さんは名前のついた不調と暮らしている。どっちの方が大変で、どっちの方が本当かみたいなよくある問いは不毛だ。
不調はそこに確かにあった/確かにある。ただそれだけ。
一般と個別の問題、身体と心を分けて考える心身二元論の限界、コロナという物語の強さなど、思考がいろいろなところに派生する実に豊かなエッセイでした。