在野研究者として生きるということーお金についての真面目な話

本日のポストでは、あからさまには聞いてこないが、皆随分関心があるんだろうな、と感じるお金のことについて書いてみたい。

わかりやすくいうと、私がこの4年間、どのようにお金をやりくりしたのか、ということ。依頼された仕事の報酬について、どんなことを考えてきたかということ。

もくじ

在野研究者を決意したときに立てた目標

前任校の契約が切れ、在野でやっていこうと考えたとき、私は次のような目標を立てた。

「研究者以外の仕事をせず、これまでと同じだけ稼ぐ」

(とはいえ、前任校で得ていた年収は、話すとびっくりされるほど低かったことは添えておきたい。)

別の仕事を持ちながら、在野の研究者として活動する人は何人もいる。家庭の状況などで、稼ぐことをそんなに考えなくていい人もいる。まず言っておきたいのは、私の目標は、そういう人たちのやり方の否定の上には立っていないということだ。ここは強調しておきたい。

その上で、であるが、なんだろう。世の中には飲食店とか、モノを売る店とか、いろんな形の仕事があり、それを個人事業主としてやる人は多い。でも、その人たちの全てが、ダブルワークをしないとやっていけないような報酬体系であったら、その仕事に希望を感じる人は減ってしまうのではないだろうか。

その意味で、もし私が在野でありながら研究職としてやっていくことができたなら、研究職のモデルケースの一つになるのでは、と思った。「大学で常勤職が見つからなければ、生活が困窮する」という焦りは、学問の世界の歪みを生み出していると感じたことも理由の一つ。

大学に就職できなくてもなんとかなるよ、楽しいよ、と思える社会の方が希望がないだろうか。

とはいえ、この目標が達成できるかどうかは全くの未知数で、数年は年収200万円台、みたいなことを覚悟はしていた。

結果

独立当初に立てた目標は、思った以上に早い段階で達成することができた。その理由は振り返ると3つある。

  1. 既存のシステムの外側で仕事ができたこと
  2. (1)の手助けをしてくれる人がいたこと
  3. 大学や学会の外側で人類学を「やる」活動を、独立前からずっとしてきたということ

人類学者のための人類学ではなく、人類学者でない人と人類学をすることに一番の面白さを感じていた私は、大学にいる時から、ずっとそこにフォーカスをした活動をしてきた。そのことは、前任校の契約が切れた後、その後の行き場がないという状況に私を追い込んだ側面はあるだろう。でも、そのことは在野での活動に生きた。大学の外には思った以上に人類学を学んでみたい人がいたからだ。芸は身を助けるとはこのことかもしれない。

非常勤講師はやらない

在野でそれなりに稼ごうとする場合、「非常勤講師をやらない」という選択は重要だ。というのも、非常勤講師の給与はバカみたいに低いからだ。非常勤でそれなりの額を稼ごうとすると、コマ数を増やすより他はなく、掛け持ちでアップアップになり、自分の研究どころではなくなる。

私は大学と関わっていたいという思いがあったため、22年まで1つだけ非常勤を持っていた。

もちろん、大学で教えてみたい人、教育歴をつけたい院生、非常勤講師という肩書きがほしい人にはいいシステムだと思う。でも、その部分を差っ引けば、非常勤講師は搾取以外の何物でもない、と私は思う。

月4回授業をするだけでなく、授業準備、学生対応、成績評価などを含め、月2万5千円とか、3万円とかいった給与なのだ(※)。非常勤を5つやっても月20万を切り、その上社会保障はない。しかもこのアルバイトに辿り着くまでに、10年といった時間と、相当な額のお金の投資をしていることはザラなのである。

他方、非常勤のコマを与える常勤教員は、これを「善行」であると思っている節がある。「断ったら、相手が怒り出した」といった話も耳にする。頭を下げて「お願いします」と言わなければならないほどの低賃金なのに。

加えて、非常勤講師側もおかしいと思いながら何も言わない。というのも、非常勤を続けることで、「常勤職のお誘いがあるかもしれない」とか、「非常勤を失えば教える場所がなくなってしまう」と思っていたりするからだ。

*領域によってはもっと高額な場合もあるが、人文社会科学系は押し並べてこのくらいでしょう。

清貧思想という病いー在野研究者になりたい人、在野研究者を応援した人にぜひ考えて欲しいこと

人文社会科学界隈には、「お金を稼ぐのはよくないこと」といった清貧思想が確かにあって、最悪なことにこれで報酬の相場が作られてしまっている。これはかなり根が深い。この清貧思想が、大学常勤職にならなければ生活困窮者になりかねない、という状態を作っていると思う。

あと社会的意義があることをやっているのだから、ボランティア引き受けてくれて当然、みたいな自負をのぞかせる人もいる。でもそれは、引き受ける側が決めることであって、発注する側が前提にすることじゃない。

「お金じゃない」というのは思想としては素晴らしい。私も全てがお金だとは思っていない。依頼によっては無報酬で引き受けることもある。

でもそれが行き過ぎると何が起こるのか。

膨大な時間とお金を投資し、ようやく獲得した知の結晶を、タダみたいな値段で明け渡して当然みたいな思想が蔓延する。知性は多くの人に届くべきだ。でも、その結果、提供する側の研究者の生活が苦しくなったら、それはただの搾取ではないか。

だから研究者にイベント開催とか、執筆とかの依頼をする仕事をしている人には考えてほしいのです。

仕事を依頼する方に考えてほしいこと

あなたが招く側ではなく、招かれる研究者だったら、あなたが提示したその報酬で、あなたは生活していくことができるのか、と。

人文社会科学界隈には、低賃金労働とか、非正規労働者の多さとかを問題視する人がとても多い。なのに自分の足元で起こっている問題は放置される。このことに私は多少の憤りを覚えている。

例えば考えてみてほしい、下記のような依頼について。

実際にあったひどい依頼(でも珍しくはない依頼)

これを読んで思い当たる人もいると思いますが、私は個人攻撃をしたいわけではなく、こういうことが当たり前になっている構造を批判するために書いています。

例1:「〜について、調査をして本を書いてください。印税は8%でお願いします」 

調査にかかる費用は全部こちら持ち。1年とか、2年とかいった時間をかけて調査をして本を書き、印税収入が50万円、みたいな。50万円はそれだけ聞けばそれなりの額だが、時給換算すると1000円を切ることだってある。著者には、自給自足のサバイバルスキルがあるとでも思っているのだろうか。

例2:弊社の媒体に1回1万字程度の連載をお願いします。報酬は1回1万円です。それを書籍化します。

例1と同様、執筆過程でかかる費用はもちろんこちら持ち。文献などを積み重ねながら1万字を書くのは、1回だけでも相当な時間がかかる。書籍化はそこまでの免罪符になるのか?印税収入で生活できる人なんて、一握りどころか、ひとかけら。

例3:本を1冊読んで書評を書いてください。報酬は8千円でお願いします。

その本はエッセイのような軽く読める本ではなく、学術書。読むのにとても時間がかかり、書き上げた後も、原稿の複数回の確認など作業が発生する。加えて、その本を読むにあたっては、当然専門知識が導入される。10冊書いても8万円。どうやって生きていけば…?

例4:弊社のイベントに出てください。報酬は1万円(交通費込み)でお願いします。

100人といった集客があってもこの報酬。それなりの収入が出ているはずなのに、利益のほとんどを主催者が持っていく。1万円どころか、報酬ゼロというのも割にある。「あなたの本の宣伝をしますから」と言うけれど、先ほどと同様に、宣伝はどこまでの免罪符になるのか?

例5:重版したら印税は5%でお願いします (これは相当なレアケースと思われる)

本が売れたということは、版元の努力だけでなく、筆者にも力があったということ。なのに力があると報酬が減るという謎システム

例6:1年間休職するので、私のゼミを非常勤で担当してください。

ゼミを持つということは、卒業論文の指導も入ってくるということ。それも10人とか、20人とか。ところが報酬は、普通の非常勤と同じ。

こうじゃない依頼ももちろんある。良心的な価格設定をしてくれる人々や会社もいる。

でも例としてあげたような依頼は、残念ながら珍しくない。在野でやっていくためには、こういう依頼のどれを引き受け、どれを断るか見極めないといけない。そうしないと、締め切りに向けた執筆や、イベントのための読書に追われまくったのに、月収15万といった結果になってしまう。

しつこいようだが、もう一度考えてほしい。こういう報酬体系であなたは生活できますか?

生活に困っていない研究者の皆さんに考えてほしいこと

他方、保障されたポジションについている研究者も考えてほしい。

上記に書いたような仕事の依頼が成立しているのは、これまでそういう価格で仕事を受けてきた研究者が大勢いるからだ。

「お金なんかいいですよ」、「ボランティアでいいですよ」と言うのはかっこいい。でもそれを言えるのは、あなたが何らかの形で十分な報酬を得ることができているからではないか。あなたが示す懐の広さは、非常勤などの低賃金労働者に支えられているのではないか。

私は税理士さんに確定申告などをお願いしているのだが、税理士さんが他のクライエントと比較しておっしゃった私の「ビジネスモデル」の特徴は、「単発で単価の安い仕事が多い」だそうです。

お金がないというけれど

こういうことを言うと決まって出てくるのが「予算がない」「お金がない」。

でも本当にないのだろうか。

お金がないと言っている当の本人は、ボーナスも社会保障ももらっている。爪に火を灯して暮らしているようにはとても見えない。

お金がないんじゃなくて、クリエーター側にお金を配分したくない、クリエータ側の報酬をギリギリまで抑えることで、社員の社会保障などが捻出されている。そういうことは起こっていないだろうか。

読んでいる人に過度な罪悪感を持たせたいわけではないけれど、格差が問題だとか、仕事がないことがメンタルヘルスを悪化させるとか、非正規労働が問題だとか、そういうことを発信したり、そういう本を作っている人たちは、自分の足元で起こっていることをもっと真剣に考えてほしいのです。1人がやれることは限界があると思うけど、発信していることと、足元の世界を一致させようとする努力くらいは誰でもできるはず。

大学の常勤職を得られなければ、途端に生活が苦しくなってしまう状況を改善するには、例で挙げたような仕事の依頼はおかしいという常識が成立する必要がある。大学にいてもいなくても、培った専門知識で生活していけるという環境があった方が、大学の中も、大学の外も絶対に幸せだと思うから。

これに賛同くださる方は、どんな小さなことでもいいので、自分の現場で具体的に動いてもらえると嬉しいです。また、私と同じ違和感を抱いたことがある人は交渉しましょう。仕事を引き受ける側が声を上げないと絶対に変わらない。

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