「それは人類学ではない」、「人類学としてはちょっと…」、「引用する価値はない」といったことを自分の著作について複数の人類学者から繰り返し言われた時期がある。
わかりやすくいうと、それら言葉に私はかなり参ってしまった。
人類学は、権威性に疑義を投げかける学問。だから人類学を学ぶ人は、そういうことを言わないとナイーヴに信じている時期だったから。
結構きつかったので、このことを恩師に相談した。そうしたらこんな言葉を返してくれた。
磯野さん、お元気のご様子、何よりです。長い間研究者をやっていると、雑音はさんざん耳に目に入ります。自分のやれることは、やらなければならない事でもあり、召命に近いものでもあります。やるべきことを明確にするのはなかなか困難ですが、ご自分を信じて、他の人を気にしないことの練習をしてみて下さい。
恩師の言葉
この言葉はいつも私の心の深くに届く。やれることは、やらなければならないこと。それは召命に近いこと。
恩師が書いたように、雑音は続く。
「人類学としてはちょっと…」という視線を投げかけられることにだいぶ慣れた頃、今度は『急に具合が悪くなる』について「哲学としてはちょっと…」という言葉が哲学を専門にする人たちから飛んできた。宮野さんは哲学者としてはもう一歩だったとか、そんなことまで。
私の人類学の著作も、「急に具合が悪くなる」も、かれらのいう「正統な学問」と外れていることは自覚している。でもかれらは、「〇〇学の門番」のように振る舞えるほど崇高な学者なんだろうか。〇〇学の神様か何かなんだろうか。
言葉の先でやろうとしていることの吟味もせず、自分の基準に沿うか沿わないかだけで、人の仕事を評価する。こういう人を心底軽蔑するくらいには耐性がついたが、似たようなことは、私が人類学者の肩書きを掲げる限り、死ぬまで言われ続けるだろう。
だからこそ、そんな時には、どんな時でも変わらぬスタンスで背を押してくれた恩師の言葉に戻りたい。
右往左往し続けた私も、やれること、やるべきことが、前よりは鮮明に見えてきている。もらった命もどこまであるかわからない。だから、自分を信じてますます外れたことをやろう。