人は自らが紡ぎ出した意味の網の目の中で生きる動物である 。
私の大好きな人類学者の一人、クリフォード・ギアツが『文化の解釈学』の中で述べた一節だ。
久しぶりに原著を開いて確認するとこうある。
Believing, withMaxWeber, that man is an animal suspended in webs of significance he himself has spun
Clifford Geertz, “The Interpretation of Culture”
古典というのは不思議で、同じ文章でもその度にちょっとずつ見える風景が違う。
今回改めて開いて気づいたのは、冒頭に”Believing”、「信じる」が来ていること。
そうか。ギアツはこれを「信じて」いたんだ。
独立の際に受けた忠告
私が大学から出て在野研究者の道を進ことを決めた際、背中を押してくださった一人の方にこんな忠告をされたことがある。
「磯野さんはすぐに人を信じてしまうから、利用されたりしないか心配だ」
その時は一体何のことかと思ったけど、実際にそう感じることはたまに起こる。よく考えれば、独立の前から起こっていた。
その手つきがあまりにも鮮やかで驚いてしまうこともあった。私は、互酬交換だと思っていたけど、あちらはそう見せかけていただけで、実際は経済交換だったんだ。私はそう思う。
人類学のさまざまな知は、こういうことを整理するのに役に立つ。癒やされはしないけど。
そしてこう思うのだ。
「信じる」と言えば聞こえはいいけど、私が迂闊なだけだったんだ。その人がどういう人なのか、私はきちんと確かめもせずに、関係性に飛び込んでしまったんだ。
だから「信じる」という言葉は私の中でかなり両義的だ。
意味は未来を指し示す
もう一度ギアツに戻ろう。
人は自らが紡ぎ出した意味の網の目の中で生きる動物である 。
とはいえ、「意味」ってなんだろう。
意味をめぐる議論は膨大にあるけれど、その一つの特徴は「ここにないものを指し示せる」こと。
先に逝ってしまった大切なあの人が残した何かを手に取るとき。そこにその人はいないけど、私はその先にその人を見る。私にとってその何かは、今ここにいないあの人を指し示している。
『急に具合が悪くなる』10便ーどんな意味の中で生きるのか
「信頼」という言葉を使う人がいたとする。
一人は、遠い未来に何事かの良きことがあると信じて、その言葉を使う。もう一人は、自分の短期的な欲望のために誰かを欺いてこの言葉を用いる。同じ「信頼」でも意味するところ、それが指し示すことが違う。
その言葉が、本当は何を意味していたか。何を欲望していたか。
周りを欺くことができても、自分を欺くことはできない。人は自分の使った言葉が指し示した「意味」の網の目の中に、否応なく投げ込まれる。少なくともギアツはそう「信じている」。
自分の言葉や振る舞いが、その先で何を意味していたか。
表面上綺麗に繕ったとしても、その裏におかしな欲望があったのなら、あなたはその意味の中で生き続けることになる。
あなたの人生はそれでいいのか?
そう自分に問う。
「信じる」ことの顛末は素敵なことばかりではない。でも「信じる」ことの先に私は何を見ようとしていただろう。
その意味が誠実であったのなら、結果が期待と外れても、きっと私はその意味の中で生きることができているし、そうでなければ、自分自身が作り出した不誠実の網の目の中で生きることになる。
ギアツと共に、私はそういう世界を「信じて」生きていこう。
『急に具合が悪くなる』は、あまりにも赤裸々に自分の言葉が投げ出されてしまっているので、後半に行くほど、自分の箇所を読むことができなくなる。
でもとても久しぶりに自分の書いた10便の215ページを開き、そんなことを考えた。
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