あなたにとって世界は「大丈夫な場所」ですか?

先日ある方から“おそるおそる”一冊の本をもらった。タイトルは「キリスト教は役に立つか」(新潮選書)、著者は牧師の来住英俊さんである。

日本の面白いところの1つは「宗教」というだけでいかがわしい人扱いされることである。とはいえ、それは違うポストで書くとして、この本の中でとても印象に残った箇所があった。

著者の来住さんは、神が彼とともに歩いてくれるからこそ世界は「大丈夫な場所」になるという。

神様を信じるか否かはおいておいて、この「大丈夫な場所」というのはとても大切な考えだと思う。

昨年まで私が働いてた国際医療福祉大学は赤坂見附にあり、ビジネス街であるせいかカフェに行くと驚くほど多くの人が啓発本を読んでいた。「お前の価値は付き合う奴で決まる!」とデカデカと書かれている箇所を熱心にノートにとっている若い男性(「それで決まったあなたの価値はなんなのか」と言っていたのは宮野さん)、「仕上げに香水をつけない女は女ではない」と書いてあるページを熱心に読んでいる御婦人。(おお、いそのは女ではない)

かれらにとって、世界は全然「大丈夫な場所」ではなかったのだろう。だから他人から命令されることで一生懸命自分の世界を「大丈夫な場所」にしようとする。

同じことを大学教員を見ていても思った。私のいた職場は定年後の2回目の就職先となっている場合も多く、私よりも20歳どころか30歳上の教員もいた。驚いたのは、かれらが真剣に次の就職先を探していて、それが見つかるまではなんとしてでも国福の教授ポストを保持しようと頑張っていたことだった。

それまでも立派な大学で教授を務め、退職金もちゃんともらっているはずの人々が、なぜ嫌なことを我慢しながら今の職を続け、次の就職先までも心配しているのか。

かれらにとって「教授」でなくなることは世界が「大丈夫な場所」でなくなることだったんだと思う。だからかれらは三度目、四度目の就職先が見つかるまで頑張って就職活動をしていた。

私がずっと聞き取りをさせてもらっていた拒食・過食をする人にとっても世界は「大丈夫な場所」ではなかったはずだ。でも自分の食べるものだけに着目して、極限まで飢餓状態を続ける、あるいは過食嘔吐を繰り返し続ければ、世界が自分にとって「大丈夫でない」ことを束の間の間忘れることができる。でもふと我に帰ると「大丈夫でない世界」が襲ってくる。だから抜けられない。

かれらは「摂食障害」という形で病気認定され、治療の対象にされるけど、啓発本を熱心に読む人たちや、一生懸命「教授」でい続けようとする人たちのことを考えると、病気認定されなくとも、世界が「大丈夫な場所」と思えない人はこの世界に溢れているんじゃないだろうか。

世界が「大丈夫な場所」に思えるかどうか。このシンプルな問いは生きる上での羅針盤なると考える。

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