死者には未来に会いに行く−『急に具合が悪くなる』を読んでくださった皆さまへ(19)

死んだ人はどこにいるんだろう、と思う時があります。よく個人を偲ぶと言いますが、それは大抵の場合、その人との思い出を振り返ったり、その人の形見にふれたり、お墓参りをしたり、といったことを指すのだと思います。

私もずっとそういうことをしてきましたが、宮野さんが亡くなって以降、そこに死者はもういないんじゃないか。そう感じることがあります。

生きている人のことを考えてみましょう。例えば昨日その人がお茶を飲んでいた場所に今日行ったところで、その人が超絶ルーチーン人間でない限り、その人はもうそこにはいません。もうその人は「昨日のあの時、あの場所」を生きてはいないからです。

私は死者もそうではないかと思います。生きている人と同様に、生きているときにいた場所に死者はもういない。かれらはもう先に進んで、私たちとは全く異なる時の流れや空間の中で、かれらはかれらの人生を生きている。そんな気がするのです。

これはもちろん故人を偲ぶことに意味がないといっているわけではありません。生きている人が昔残してくれた言葉、もらったモノに勇気付けられることがあるように、死者が遺した言葉やモノを悼むことで未来に進む勇気をもらえることはたくさんあるでしょう。

そうではなく私が言いたいのは、生きている人が昔残した言葉の場所ですでに生きてはいないように、死者もそこでは生きていないということなのです。

じゃあ、どうやったら死者に会いに行けるのか。霊媒師を呼べとか、降霊術を学べとかそういうことではありません。(人類学者としては興味津々ですが…)

もっと違う方法があると私は考えるのです。

ここからは宮野さんと磯野の出逢いという唯一性の観点からしか話せないので、そこに絞って話を進めます。

宮野さんが残した偶然性という概念

書簡10便は私にとってかなりハードルの高い仕事でした。時間との勝負、宮野さんがどんどん具合が悪くなるといった環境をさておき、偶然、運命といった概念をこれまでの研究の中で考えたことがほとんどなかったからです。不確定性、リスク、蓋然性、物語といった概念が中心に展開される前半はある意味私のお庭でした。他方、偶然・運命は私のお庭にはいません。結果、いろいろな意味で磯野からの10便はギリギリのところで言葉を出すことになりました。

だったら「そんなこと話さなきゃいいじゃない」と思いますよね。実際、おっしゃる通りなんですが、とにかくああなってしまったのです。

対して、この二つの概念は宮野哲学の本丸でした。博士論文を書き終え、それをもとにした「出逢いのあわい」を校正しながら書かれた第10便は、彼女の20年余の哲学人生の深みから紡ぎ出されています。

昨年の1月、代官山TUTAYAで行われたトークで対談相手の哲学者・古田徹也さんが次のようにおっしゃっていました。宮野さんは「出逢いのあわい」で展開した哲学をさらに一歩進めて「急に具合が悪くなる」を書いている。「急に具合が悪くなる」ではその結論だけポンと提示されている箇所が複数あるため、「出逢いのあわい」も読まないと彼女の言葉の核心はわからない。

私は宮野さん亡き後、「急に具合が悪くなる」、「出逢いのあわい」、そして九鬼周造の「偶然性の問題」を自分の視点で読み続けてきました。その中で、彼女があの10便で何を言いたかったのか、より深いレベルで感じることができるようになっています。偶然や運命という概念を宮野哲学ではなく、自分なりの言葉として語れる場所が生まれてきたと感じています。

それは無理くり自分の学問分野に引きつけて語るという意味ではなく、そうすることで自分がこれまで語ってきたことはより豊かになる可能性を感じます。

そして宮野さんともう一度会える場所があるとしたらここだろうと思うのです。

死者はそれぞれが大切にしてきた何かを持っており、それは生きる身体が亡くなった後も生き続ける。だからその大切なものに未来で会おうとしたその時に、生きる私たちは死者と歩み、出会い直すことだってできる。

言い換えると、約束は生きている人とだけ交わせる何かではない。死者とだって約束は交わせるんだ。そう思うのです。

宮野さんが亡くなって今日でちょうど一年が経ちました。

お手元に「急に具合が悪くなる」がある皆さん。本を開いてもらえれば嬉しいです。

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