コロナと怖さ

本日(30日)17時からこちらのラジオ番組(NHK:どうする・どうなる? 新型コロナと私たち)に出演させていただくにあたり、改めてこの病気をめぐる「怖さ」について、色々な立場の人のお話を聞きながら考えていた。

この病気をめぐる怖さは実に多様である。

あるひとは基礎疾患もなく、年齢も若いのに、外から帰ったらカバンを家の中に持ち込むことすら怖いと感じ、出歩く若者には怒りを覚えている。

ある人は重い病気を抱え、抵抗力を圧倒的に弱める薬を飲んでいるにもかかわらず(つまり感染したら危ないことは知っているにもかかわらず)、人に会うことも、会食をすることも気にならないと話す。

医療・介護従事者は自分が感染することで、患者さんに感染させてしまうこと、周りの同僚に迷惑がかかること、さらには組織全体に迷惑がかかることを恐れている。

施設の管理者は、その中の利用者への感染のみならず、クラスターが発生した際の社会からの糾弾を恐れている。

感染者がほとんど発生していない地域のある人は、自分がもしなった場合に社会から村八分になることを何よりも恐れている。

怖がり方の濃淡とそのあり方の違いは、他者への怒り・糾弾に容易につながる。ある人は、それは「正しい怖がり方ではない」と怒り、ある人はそれは「コロナ脳」だと揶揄し、ある人は「日本人はお気楽すぎる」と憤慨し、ある人は「日本人は過剰防衛」だと批判する。

なぜ怖がり方や、怖さの向かい先がこんなに多様になるのだろう。

その理由の一つは、この感染症に関しては、実際にかかった人、かかった人に会ったことのある人が、人口に比すると圧倒的少数であるにもかかわらず、情報だけは溢れかえっていることにあるだろう。

人は自分が日々経験していることに関しては、情報と経験の間でバランスを取る。どれだけ凄惨な交通事故のニュースを見ても、車に乗ることをやめたり、車を運転する人に石を投げたり、自動車会社に脅迫文を送る人などまずいない。それは、車に乗ることが、車が走る社会がどういうものかを身を持って知っているからだ。

バファリンの重篤な副作用(まず起こらないが絶対に起こらないとは言えない)に頭蓋内出血とか、中毒性表皮壊死融解症といったよくわからないけど怖そうな病気の名前が書いてあっても、多くの人は怖がらずにこの薬を内服する。それはこの薬を飲むことがどういうことかを経験の中で知っており、それが多くの人に大体同じ形で共有されているからである。

他方コロナに関しては、この様な経験値が社会にほとんどない。社会の圧倒的多数が目にするのは、数字とイメージと言葉だけである。

もちろんこの病気に出会ったことがある人は、自分の経験と価値観を混ぜ合わせる形で、この病気の怖さ、あるいは怖くなさを工夫をしながら伝えようとするけれど、それはあくまで情報でしかない。

だから、その情報と出会った人が、それによってどんな実感を得るのかは未知数だし、自分が期待していた様な受け止め方を相手がしなかったとしても、それはある意味仕方がない。なぜなら情報の受け止め方は、その人がどんな人生を歩み、どんな価値観を抱いているかに大きく左右されるからである。

このことを前提として情報の発信というのを考えるのであれば、情報発信とは、発信者が受け手との間にどんな未来を作りたいか、という願いの話、受け手をどういう人間として尊重しているか(していないか)という関係性の話になるのだろう。

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