「遊び」としての「学び」

現在開講中の講座に参加されている方からこんなツイートが。

これは嬉しい。すっごい嬉しい。

「学び」を他者に向けた成果として表そうとすると、資格とか、学歴とかそういうものを作らざるを得ない。でもそうなった途端に、学びは「手段」に格下げされる。

そのシステムは結果として、「どうやったら楽して効率よく、短時間で学びを終えられるか」という目線を産んでしまう。それが出席点だけ取るために教室いる学生や、動画の再生記録だけが欲しいセミナー参加者などをそれなりの数生み出してしまう。

対して私は、資格を与える制度の外側で人類学を広げたいと願っているのだから、自分が提供する「学び」は「遊び」であることを心がけたい。「遊び」にはその先がない。でも、その先がないから遊ぶことは楽しい。

リスキリングとか、スキルアップとか、その先に目的がある学びばかりが跋扈する世界だからこそ、そうでない世界を少しでもとどめられるよう頑張ろう。

「楽しさ」が土台にあって初めて、どうやったら効率良く読めるか、要点を掴めるかという工夫が生きてくる。そんな試行錯誤から生まれくる自分は、予め狙った変化よりも面白くて、素敵なはずだ。

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