12月号のテーマは「未来」
今年は、共同通信が配信する「論考2022 」の担当をした。最終回の12月号は、全国約50の地方新聞にすでに配信されており、日を違えながらいろいろなところで掲載され続けている。
最終回のテーマは未来。一つ一つの新聞記事を感慨深く読む人はいないという認識はありつつも、最終回はやはり力が入った。
「論考2022」で何を扱った?
そこで今日は、この1年で扱った時事問題を振り返ってみたい。
月 | テーマ | 時事問題 | keyword |
1 | 科学技術 | 感染予防と大人の本音 | 道具・身体の煩わしさ |
2 | 身体 | Facebookのメタバースへの参入 | 言葉・社会・科学技術 |
3 | リスク | 新型コロナウイルスワクチン5〜11歳への接種開始 | 異物・違和感 |
4 | 国家 | ウクライナ戦争勃発 | 境界・共同体 |
5 | 病気 | 発達障害の増加 | 社会の医療化・分類・正常・規範 |
6 | リスク | HPVワクチン積極的勧奨再開 | 病気をめぐるパニック・日本文化 |
7 | 象徴 | ラン活(=ランドセルを買うための活動) | ランドセルの歴史・象徴 |
8 | 宗教 | 旧統一教会問題 | 日本の宗教 |
9 | 葬送儀礼 | 国葬開催 | 国家・弔いの意味 |
10 | 理想の身体 | 増える脱毛広告 | ありのまま・自分らしさ・身体変更 |
11 | 貨幣 | 続く物価高 | 贈与交換と貨幣交換 |
12 | 未来 | 日本の少子化、過去最悪のペース | 人種差別・越境・共同体・想像力 |
国家を揺るがすような、暮らしに大きく影響するような事件がいくつも起こっている。なのに私自身が眺めても、今年ではなく、もっと昔に起こったことのように感じてしまう出来事がいくつかある。
その理由の一つは、毎日毎日大量の新しい情報が入ってくることだろう。
加齢の影響もあるのだろうが、溢れかえる情報が、あたかも鉄砲水のようにそこにあった「今」を流してしまう。「今」があっという間に消えてしまう。そんな感覚を持つ。
その上、「検索すればいいや」と思える今は、”覚えていること”そのものの価値自体を弱めているのやもしれない。
歴史の反対は検索?
そこで思い出すのが、「歴史の反対は検索ではないか」と問うた評論家・與那覇潤さんの言葉である。
これについての與那覇さんの見解はご著書『過剰可視化社会ー「見えすぎる」時代をどう生きるか 』内の私との対談箇所に掲載されいてる。ちなみに與那覇さんは私が出会った頃は元歴史学者と名乗られていた。
今起こっている出来事を、過去から続く時間の流れのなかに埋め込んで理解したり、評価したりするのではなく、気になる「今」を自分お好みの検索ワードとくっつけ、得られた結果を当該現象の理解とする。それはファストで、カスタマイズされ、なんなら要約までくっついて心地よい。
サクサクの食感。スルッと飲み込め、後味はさらり。
理解はあなたの邪魔をしない。なんなら理解しようとすらしなくて良い。全てがお好みの形で出てくるのだから。
でもこういう理解は、そこで検索された「今」が、過去から今に至る流れの中のどんな出来事と結びついていたのかといった、「検索者の好み」をひたすら薄める形の理解を難しくする。
この状況は、今読み進めている現代思想が専門の重田園江さんの新刊『真理の語り手ーアーレントとウクライナ戦争』で検討されていることとも響く。重田さんはこの中で、「Aという事件が起こった(あるいは起こっていない)」といった事実すらも嘘だ、陰謀だと否定される現象を、「真理の否定」として哲学者ハンナ・アーレントを中心に解読する。読了する前からこんなことを言うのはどうかとも思うが、本書は重田さんの初作にして名著『フーコーの穴』に匹敵する予感がある。(ここで言う「真理」が何を指しているかは本書を参照されたい)
過去を覚え大切にすることは、検索に今を支配されないための工夫なのだろう。その意味で、一つのテーマを1ヶ月弱にわたって考える機会を与えてもらったこの1年は僥倖だったのだ。