言葉の向きと体の向き

色々な人の文章や発言に触れて思うのは、目に見える、耳に入る言葉とは別に、その言葉を発する人の身構えがそこに滲み出てしまうということ。

言葉を見れば、徹尾徹頭論理的で、非の打ちどころのない批判でも、批判を書いている人間の身構えが「こいつ、とにかく気に入らない」だったら、それが滲み出てしまう。

優しさと思いやりに溢れた言葉を綴る人の身構えが、そういう言葉を用いて自分の地位をあげることに向いていれば、それが垣間見えてしまう。

言葉の向きと体の向きが違っていると、言葉はとても軽く、浅はかになる。

巧みな言葉遣いで、ずれを上手に隠し、多くの人から喝采を受ける人もたくさんいる。でもそういう言葉はどれだけ先の未来に届くのだろうと思う。

長く読まれる何か、受け継がれ続ける言葉というのは、言葉の向きと体の向きが完全に一致しているものなのではないだろうか。この二つを一致させることはとても難しいことだけれど、それができた時、そういう言葉は、読んだ人、聞いた人の身体にまっすぐ届く。

もくじ

体制側に行く同期たち

私と同じ時期に博士課程だったり、任期付きの教員だったりした同期の研究者たちが、今では大学で安定した地位を得るようになってきている。

もちろんみんなではないけれど、見ていて驚くのは、その中の一部が確実に、「あちら側」の人間になっていくことだ。

若い頃に「ああい構造は間違っている」「ああいうことが学問を潰す」といったことを熱く語っていた人たちが「ああいう構造」の一部に、「ああいうこと」の実践者になっていく。

「あちら側」の人間になっても、言っていることは変わらず、美しい。非の打ち所がない思いやりに溢れ、悪しきに立ち向かう言葉が並ぶ。でも体は全然違う方を向いている。

そうか、こうやって人は変わり、奇妙な構造は受け継がれていくのだ、と思う。

組織の中でポジションを得て、地位を固めていく際に必要な言葉と身構えが、研究の中で立ち現れる言葉や身構えと、どこかで徹底的に乖離してしまうのだろう。(繰り返すが、「みんな」ではない)

どうやったら人に優しくなれるか、包摂できるか、みたいな本やサイトはたくさん出ている。それをまとめるカタカナ語もたくさんある。それを学ぶ場もたくさんある。

そういう枠組みはもちろん有用だけど、その手前で本当に必要なのは、言葉と身構えの辻褄を合わせ続ける努力を諦めないことなのではないだろうか。それは絶対にずれてくるものだから、がんばって合わせるようにするしかない。

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