人文知に新しい行き先を

7月終わりより、働く人のための人類学講座「他者と関わる」を5回連続(オンライン)で始めます。それにあたり、なぜ私がこのような講座を始めるに至ったのかをお話させてください。

ちょっと長いですが大学を出る経緯とも関わっているため、読んでいただければ光栄です。8分ほどで読み終わると思います。

働く現場を持つ人と人類学の相性のよさ

昨年度まで私は、国際医療福祉大学大学院で5年に渡り人類学を教えてきました。その中で一つ気づいたことがあります。

かなり荒っぽく説明するとー

知の行き先に、知を受け取りたい人がいない

そう思わせた理由の1つ目は、実はとてもポジティブです。大学院で私が感動したのは、人類学に対する院生の学習意欲の高さと、院生の現場応用力の高さでした。教室で得たことを勝手に自分たちの働く現場に持っていて応用してくれるのです。

私の講義は選択科目でしたから、別に無理して取る必要はありません。にもかかわらず、通年受講してくれる学生は毎年それなりの数いましたし、聴講希望の院生も毎年複数いました。そもそもかれらは忙しいので7限開始の19:45に教室にわざわざやってきてくる必要は全くないのです。ところが、それでも顔を出してくれ、中には自主的に課題を提出するツワモノもいました。とにかく面白かったらしいのです。

臨床に戻った元院生から「臨床で一番役に立っているのは医療人類学です」と連絡が来ることもあります。

人類学の知は、大学の外に働く現場を持つ人とすこぶる相性がいいらしい。

国福での経験を通じて私が得た最も大きな学びです。

人類学の力に確信を持った私は去年の4月、「「医療人類学って何?」と思っている人がほとんどだと思いますが、後悔はさせないから安心してください。この学問めちゃくちゃ面白いんです」と思わず言い放つまでに至ります。

「じゃあ一体なんで辞めたの?」って思いますよね。

残念ながら、現場で使うことのできる知を講義を通じて提供することは、国福では教員評価に繋がりませんでした。意外と思われる方もいるかもしれませんが、これは国福に限らず大学ではよくあることです。

とにもかくにも一年毎に更新されていた契約が昨年度で切れ退職したわけですが、問題はその後です。結論からいうと、今私は、大学常勤職員の公募を一切見ていません。通知も止めました。

「諦めなければ絶対に磯野さんを欲しい大学があるよ!」と力強く励ましてくれる教員の友人は何人もいました。磯野が4月から生活困窮者にならないよう、本当に頭の上がらないレベルで、ただでさえ忙しいのに動き回ってくれた元同僚、友人、先輩もいました。そして、そのような支えを受けながら「ものすごく」考えた末、常勤教員ではない道を模索することにしました。

学びではなく、出席が目的になる学部

理由の一つは、人文・社会科学知の最大の提供先である大学学部において、そこにいる目的が「学ぶ」ことでなく、「出席」になっていることがままあることです。

先日、福岡で学習塾を開いている鳥羽和久さんが書いた「おやときどきこども」を読んでいたところ、学びが受験のためだけの手段に成り下がってしまった、といった一節が目に止まりました。鳥羽さんはこれを嘆いているのですが、私から見ると受験、すなわち成績が目的になる方が、出席が目的になるよりまだマシな気がします。

もちろんここで「学部」と言ってしまうのは一般化が過ぎるでしょう。大学の講義・演習を通じて、新しい世界を切り開きたいと願う学部生もたくさんいます。そこを共に伸ばそうとする大学教員もたくさんいますし、私もそうであろうと努めました。

とはいえ、人文・社会科学系の学問を教えている教員であれば、目的が学びではなく、単位になっている学生がそれなりの数いることは否定できないと思います。

学びではなく、出席とその先の単位取得が目的になるとどうなるか。学生はいかに楽をするかに全力を注ぎます。座っていればAが来るような「楽単」講義の情報収集に勤しみ、レポートはバレないようにコピペで済まし、講義中はインスタをやったり、おしゃべりをしたりします。

これは残念な事態ですが、その原因を大学生の意識の低さだけに求めることは無理があります。なぜなら就職活動において評価されるのは学びの質ではなく、卒業大学名であることが圧倒的に多いからです。そこを踏まえると、楽単に走る大学生はある意味最も合理的な集団と言えるかもしれません。

この学部の構造は負のスパイラルを起こします。自分の担当講義を「楽単」にしてしまえば教員も楽なのです。ここで学生の求める「楽」と大学教員の求める「楽」は手を結んでしまいます。

だから、知の行き先を変えたい

ここで私は考えました。

人類学を含む、人文・社会科学知の提供先が学部に集中し過ぎている現実が色々な悲劇を生んでいるのではないか。

悲劇とは、何もしない意味での「楽」を媒介にし、学部生と教員が手を結んでしまうことだけではありません。人文・社会科学系の教員ポジションが年を追うことに減っていること。それをめぐる競争と不透明な人事によって研究者が傷を負うこと。改善されるどころか、ますます広がる非常勤教員と常勤教員の圧倒的格差。その結果起こる、非常勤の生活困窮や、最悪の結果としての死。

人文社会科学の知の提供先が学部に集中し、そこでしか研究者が生きる糧を見つけられない現状は、胸が痛くなる数々の現実を生んでいると私は感じます。

だから思ったのです。人文・社会科学知に価値を見出し、「もっと学んでみたい」と思っている人が集まれる場所を大学の外に作り、そこを新たな学びの選択肢とすればいい。加えて、知を提供する側の人間がそこに意義を見出しながら、生活をしていくことのできる場所があればいい。

それができれば、何もしない意味での「楽」ではなく、「楽しさ」という意味での「楽」を媒介にし、互いが手を結ぶことができます。

院生の学習意欲の高さはとても魅力的でした。しかし国福大学院の1年間の学費は大体100万、初年度はプラス入学金です。学びたいと思っても、この金額を出せる人は少数でしょう。「学びたいけど修士号・博士号まではいらないな」、「そこまで時間が使えない」という人も多いはずです。また、国福は昼間働く院生に合わせ、講義を夜に集中させていたのですが、その開始時間は18時。仕事の関係で遅刻する院生が多々いました。フルタイムで働く院生のことを考えた時間割ではありましたが、それでもちょっと早すぎるのです。

カルチャーセンターがあるじゃない、と思われるかもしれません。ところがカルチャーセンターの講義は昼間に集中している場合がほとんどで、この時間に働いている人の第1選択とはなりません。仕事をやめ、入学試験を受けてまで学部入学しようという志を持つ人はもっと少数でしょう。

人文・社会科学を学んでみたい人は確実に存在し、その一つである人類学は確実に世界を面白くします。でも現行のシステムでは、提供者と受け手のマッチングが悪すぎる。

つまり、このマッチングの悪さを調整すれば「学び」を目的にした「学びの場」が自ずから生まれます。次の形で。

  • 学部や院に入学するまでではないけれど、人文・社会科学を学んでみたいと思う、働く人に向けた講座を提供する
  • 移動の手間と地域差を解消するため講座はオンラインとする
  • 開講時間は夜遅めとする
  • 知の提供側と受け手がどちらも経済的な圧迫を受けない

このような場を作るため、4月から圧倒的なサポートをしてくれている二宮明仁さんと何度も話し合いを重ね、5月のオフィシャルサイト、6月のブログ開設に続き、本日のオンライン講座の開講にお知らせに至った次第です。

開講される新しい場所の名前はFILTR。二宮さんが考えに考えてつけた名前で決してFILTERのスペルミスではありません。FILTRが正しいんです。何度も言います、FILTRです。

二宮さんと一緒に新しい知の届け先を作り、共感くださる方に集まっていただければと考えています。

今後、私の講座だけでなく、他の講座も少しずつ増えてゆけばと思っており、その一弾が、磯野による人類学講座「他者と関わる」(5回連続)です。

学んでみたい意欲のある、働く方に向けた初心者向けの講座となります。ご関心のある方お申し込みいただけたら光栄です。

2020-07-04|
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