自死についてー生きることと、死ぬことの価値

今年に入ってから、私の周りで二人目の自ら命を絶つ人が出た。

警察庁のWEBサイトによれば、今年の9月までですでに1万5千人が自殺をしている。新型コロナウイルスで亡くなった人(国内)の約9倍だ。

私は別に自殺者の数の方がよっぽど多いから、感染対策は必要ないと言いたいわけでは全くない。

でも、今年3月からスローガンのように掲げられ続けた「大切な命」という、誰一人反対できないフレーズはいったいなんだったんだろうと思う。

女性の自殺率が昨年に比べ格段に増えたこと、芸能人の自殺が続いたことで、自殺の問題が最近はクローズアップされてはいる。でも芸能人の自殺が続く前から、毎月1500人前後の人が自ら命を経っている。なぜそのことはコロナの感染者数のように多くの人が知る事実にならないのか。

「大切な命」の背後で本当に大切にされたかったことは「命」なんかじゃないんじゃないか、と訝ってしまう。

なぜ生きているのか

なんのために生きているのか

人が生きるとはどういうことか

そういうことが全く問われることがないまま、「命を大切にしない」とされた人々が糾弾され続けた日々の中で、命を絶つ人が毎月1500人も出る社会。なぜ日々の感染者数と死者数は1日に何度も報道するのに自殺者や自殺未遂の数は報じないんだろう。

そうすると刺激が強すぎるから?後追いで自殺をしたい人が増えるから?

でもそうだったら、日々繰り返されるコロナ報道に悪影響はないんだろうか。

なぜ生きているとか、死んだらどうなるかとか、そういうコミュニティで共有される宇宙観を放棄した現代社会において、自らが生きる意味や、自分が生きていることの価値を見出すことは果てしなく難しい。加えて、その難しさの隙間から、「こうしたら人生明るくなりますよ」「あなたらしい人生が送れますよ」という薄っぺらいたくさんの善意が差し込まれ続ける。

より良い人生とか、あなたらしさとかいった言葉を不用意に掲げる人たちの中で、自分の人生の奥底まで降り、自分の生きる意味と価値を模索している人がどれだけいるんだろう。

死にたい理由はたくさんあるだろうけど、死にたい思いを抱く人たちの中の一部は、自分がなぜ生まれてきて、なぜ生きているのか、そういうことを見つけられないまま、日常に渦巻く人間の狡猾さや、政治的なやりとり、浅はかな綺麗事に心を蝕まれ、生活も立ち行かなくなった人がいるのではないだろうか。

本来であれば、そういう事態に陥った時こそ、自分が生まれてきた意味や、自分がここにいることの価値が明日も生きる決意をギリギリで底支えするんだろう。でもそういう問いを、エナジードリンクを飲んだような興奮の中でなく、じっくり穏やかに考えられる場の中におき、そこで得た気づきを、せっかく見つけた意味や価値が届かないことも多い、煩瑣で時に残酷な“日常”という生の実践の場に結び付けようとする身構えを真摯に応援する回路はあまりにも少ない、と思う。

哲学者のシェリー・ケーガンがいうように、死んだ人に「生きているのと、死んでいるのどちらがよかったですか」という質問ができない以上、死んだことのない人間が、死ぬより生きている方がいいなんて決めつけることはできない。

生きていることの素晴らしさを疑いなく掲げるのではなく、生と死を等価に置きながら、今ここに自分がいること、なぜか生きてしまっていることの意味を考える。メディアの数字に現れることはないだろうけど、それだって命を大切にする一つの実践なんじゃないだろうか。

この世界は死んだ方が楽と思えるくらいにはじゅうぶんに辛いんだから。

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