福井市が主催となり2016年から行われているXSEMI。今年のタイトルは「わけるから、わからない−個とパブリックのあいだを考える」。
観光案内とか、美味しいものマップとか、地域創生でよくやられがちなところに目を向けるのではなく、アイデアが生まれる場として福井を盛り上げ、人に集まってもらおうという深いきらめきのある企画。
ディレクターの一人である白井瞭君が早大時代の元学生さんというなんだか素敵なご縁のおかげで、トップバッターのスピーカーとディスカッションのファシリテートとしてお招きいただいた。
さて、こういう企画の際に必ず考えないといけないのが「文化人類学とは何か」という説明。
政治学とか、心理学とかだと、どこかで一度は耳にしたことがあるため–それがあっているか間違っているかはさておいて–なんとなくイメージはしやすいと思う。他方文化人類学は、「初めて聞いた」という人も結構いるため毎回説明の仕方を考える。
結果今回は、次のようなスライドを用意した。
文化人類学とは「わかった」ことを一度わからないことにする学問。
これはXSEMIのテーマに合わせ考えたものだけど、意外といい線をついている気がする。
(少なくとも磯野の)文化人類学を講義や演習を受講した人からは、足元がぐらぐらするとか、頭がグルグルするとか、そういう感想をもらうことは多い。
そうなるのは当然で、文化人類学は多くの人にとっての自明の事実に疑いの目を向ける。「こういう生き方が正しい」という倫理には、そうじゃない生き方もあると違う視点を差し挟む。
その結果、わかっていたはずのことはわからなくなり、ぐらぐらしたり、グルグルすることとなる。こういう作業を相対化という。
わかるようにするのは、必要なことと、不必要なことを切り分けて後者を切り捨てることと表裏一体である。だからわかったことで何かが見えなくなっている、というのは実はよくあることなのだ。
文化人類学はわかったことをわからなくすることで、見えなくなったものをもう一度見られるようにし、そこからもう一度「わかる」を組み立てようとする(しない場合もある)。
私はそういう組み替えのプロセスから見えてくる世界に惹かれ、だから人類学が好きなんだと思う。
ご連絡
XSEMIの磯野への質問で、「文化人類学のポスドクをやっているけど文化人類学が全然好きになれません。どうして磯野さんはそんなに好きなんですか?」と切実な質問をくださった方。お答えすると他の方の関心から大きく外れそうだったので答えられなかったのですがとても気になっています。よろしければHPからご連絡ください。もしこれを見ていたら、ですが。