「それは単なる”おまじない”」と切り捨てていいのだろうか?

疫学とか、リスクコミュニケーションとか、社会心理学とかの本を読んでいると「それはおまじないに過ぎない」といったフレーズがしばしば出会う。

科学的根拠がない。それはイコール「おまじない」というわけだ。こういう理解からは「正しい知識」を私たちが教えてあげましょう、という啓蒙思想は否応なく立ち上がる。

当然、文化人類学者の私としては納得がいかない。なぜならおまじないをする人たちは、自然法則を知らないわけでも、科学的思考ができないわけでもないからだ。

講座で読み進めている『汚穢と禁忌』では、もうすぐ雨季が来ることを十分に知りながら雨乞いをする民族の話が出てくる。かれらは統計を使ったり、高度な測定器具を用いたりするわけではないけれど、自然法則については深い知識を持っている。雨乞いはその上で行われるのだ。

もっと私たちに引きつけていえば、受験生が試験の前に食べるキットカット。受験生は、勉強を一切せずにキットカットだけ食べれば合格すると考えているわけではない。勉強を頑張った、その上でかれらはキットカットを食べる。「おまじない」は工夫と努力を尽くした先に現れる

そうやって「おまじない」を考えたとき、それを私たちは根拠がないとか、非合理とか、意味がないといえるだろうか。「おまじない」は、一人称の視点で捉え、そこにどんな意味、形式、経験、効果が生み出されているのかを観察しなければ、その力はわからない。

メアリ・ダグラス『汚穢と禁忌』では、そのことが繰り返し語られる。

人間以外で「おまじない」をする動物っているんだろうか?「おまじない」は人間がどういう動物なのかを教えてくれる、人間らしい行為の1つだと私は考える。

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