誰かに指摘される「あなたらしさ」をどう扱うか。

2年前に開催されたダイエット幻想読書会。今週末は、そこに参加した方たちが、有志で定期開催する哲学対話に初めて参加させてもらった。

テーマは、「(自分ではない誰かの)その人らしさ」とは、どこからくるのか」。

つまり「誰かに指摘される”あなたらしさ”」の話。とても有意義な1時間だった。

哲学対話の問いに対する私なりの回答は、人は一番言葉にしやすく、面白くてわかりやすい部分を誰かの「らしさ」にする。そしてそこには、「あなたもこう思ってほしい」という願望がしばしば入っている。

ちなみにダイエット幻想読書会は、2021年1月から5カ月にわたって私が主催した「からだのシューレ」のイベント。その後2年もコミュニティが続いているのは、びっくりするし、嬉しい。

それはさておき、「誰かに指摘される「あなたらしさ」」は私にとって結構扱いの難しい問題だ。

私は自分で独立研究者という生き方を選んでいるので、「磯野は〇〇」という(全く知らない)誰かの理解から逃げることはできないし、それによって生活が支えられることもある。またそれによって新たな気づきが得られて、世界が広がることもある。

ただ私が難しいなと思うのは、私が自分のことを「Aである」とは思っていないのに、周りが「Aである」と確信している場合。かつそれが私にとって、全く心地よくない場合だ。(まあ、これは誰にとってもそうだと思うけど)

他者からの方がよく見える自分もあると思うので、そういうことを言われる時も「そうなんですね」みたいな感じで、とりあえず肯定するようにしている。

また最近の私の人間理解として、「人は所詮1人称の世界でしか生きられない」というのがある。なので「Aではない!」と私がいくら主張しても、その人の「Aである」という確信は変えられないだろう。だから抗わない。

ただ一般論として、「〇〇さんはA」という会話の気味悪さは、そこに続く会話がAに乗っかる形で、どんどん過激に、浅くなっていく場合があることだ。「A」は、人ひとりをわかりやすく表しているに過ぎないので、言葉自体に深みがない。しかしその会話に乗っかっている人は、その会話にある種の面白さとか、快感を感じているので、全くストップがかからない。そうすると誰かが抱いたAが〇〇さんの真実となっていく。

私は一度、大した規模ではないけれど炎上経験があるので、あの言葉の展開の仕方は本当に恐ろしかったし、文字通りしばらく病んだ。というか、世界の見え方が変わった。でもだからこそ、「磯野は〇〇である」という言葉に引っ張られないよう頑張っている。

なぜなら、周りが思う「磯野」を否定しようと頑張ったり、さらにはそれをコントロールしようとしたりすると、ますます周りが決める「磯野らしさ」を気にすることになるからだ。その結果、本当に大切なことがわからなくなってしまう。

だから今年9月の高校生への講演でも、「必要な批判と不要な批判を選別できる力を養ってください」という言葉を送った。

あわせて読みたい
自分らしさも、個性も探さなくていいー高校生に講演 今は、とにかく「あなた」に強烈な光が当てる時代だ。「あなた」にこそ揺るぎない価値がある。周りがどうこうではなく「あなた」が大切。あなたらしくあればいいのよ、と。でもそうやって「あなたらしさ」が強調されることで、余計にわからなくなることってあるよね、と思う。

私が将来の行く末で悩んでいる時、調査をお手伝いしてくれ、かつ今でも応援し続けてくれるある医師が「見ている人は必ず見ています」という言葉をかけてくれた。

ありふれているけど、これは真実だと思うし、いい意味で緊張感を与えてくれる。

大切にすべきことを間違えず、それを形にする暮らしを送っていれば、きっとなんとかなる。

これは確信というよりお守りのような信念だけど、揺らいだらここに立ち戻るよう心がけている。

  • URLをコピーしました!
もくじ