友の命日に

ちょうど2年前の今日、京都に向かう新幹線の中で彼女の訃報が届いた。どこかでこの瞬間が来ることは覚悟していたけれど、昨晩電話で話した人ともう今日は話せない。

彼女が急に具合が悪くなって、死んでいくまでを共にしてから、自分は明日死ぬかもしれない、今日突然治らない病気を告知されるかもしれない、この人と会うのは最後かもしれない、そんなことを否が応でも意識する日々が続いている。

もくじ

楽しくないのは何かが間違っている

「楽しくないのは何かが間違っている」

私がアメリカ留学中、専攻をスポーツ科学から文化人類学に変更することを考え出したときに学部時代のゼミの先生から言われた言葉だ。

文化人類学に惹かれたとはいえ、いきなり全く違う分野に専攻を変えるのはいかがなものなのか。悩んだ私は学部時代にお世話になった3人の先生に相談し、もらった言葉の一つがこれである。

彼はこう言っていた。

「僕は真剣に考えた末、楽しいことを自分のゼミの第一の目標にしました。楽しくないと感じたらそれは何かが間違っているんです。だから僕は自分のゼミが楽しい場所であってほしい」

そうやって彼は私が飛ぶことを応援してくれた。

そうじゃない生き方について

そんな彼から2019年の冬に突然メールが届いた。「急に具合が悪くなる」を読んだのだという。彼は運動生理学の研究者で論文もバリバリ書いているのに、スポーツをしないことを豪語する変わった研究者だった。

そんな彼が取り上げたのが、今までも、そしてその後も誰も注目したことのない箇所であった。

そうじゃない生き方を想像することは難しいし、そうじゃない生き方をする人を怪訝な目でみることがある。(56)

この前後のくだりを読んで彼は、自分の生き方が「そうじゃない生き方」であったのだと合点がいき、ますます「そうじゃない生き方」をする決意を固めたのだという。そして彼はこうも言っていた。学部生の磯野があの時の自分の歳に到達し、この本を書いたことに感慨もひと塩であると。

大学を出るという決断について

大学の常勤職を求めることはもうしない、とはっきり心を決めたのは2020年5月初旬だった。それが何かの詳細は省くけど、体裁だけ綺麗な言葉で立派に整えて、内実は全く違う。組織の体裁を整えたり、自分のアクセサリーとして輝くときだけ、公正で、強くて優しい言葉を掲げる。遠くの不正や格差は勇ましく批判するけど、足元のそれは涼しい顔でスルーする。そういうのにいい加減うんざりしてしまった。

大学教員が悪人と言いたいわけじゃない、素敵な人はたくさんいる。だけどこの構造はやっぱりおかしくないか。この構造に認めてもらうために自分の時間を使うことは金輪際やめよう。そう決心したのがこの時期だった。

勝算はあったんですか、と聞かれたことがある。勝算なんてもちろんなかったけど「ここにはもういたくない」「いられない」ということだけははっきりしていた。そう思うと「そうじゃない生き方」を私はこの時選択していたのかもしれない。

そうじゃない世界は作れるのか

10年間の教員生活でエグいものをたくさん見てしまい、出てからもしばしば目撃するので、これについて語ろうとすればいくらでもできる。でも「そうじゃないでしょう」と批判し続けていても、生活ができない。何よりも批判で土台を固めたら、自分が嫌だと思った構造に依存して生きることになってしまう。

だから「そうじゃない生き方」を選ぶなら、そうじゃない世界を作ってそこで暮らす方法を見出してゆくしかない。そうじゃないと思うAに対し–Aを叫んでAを必要悪にしてしまうのではなく、生きるためにそうでないBを作り出すことはできるのか。

それができているのかはわからないけれど、この1年で少し手がかりは得られた気がする。とりあえず生活することはできたし、この生き方を応援してくれる、思った以上のたくさんの人たちに出会うことができた。大学を諦めたことで自分の信念みたいなものがよりはっきりと見えてきた。

でも怒りは忘れずにいたい

アンガーマネージメントが子どもにまで勧められるほど「怒り」はないほうが善いものと思われているけれど、「怒り」とは論理的に考えられない人の幼稚な感情なのだろうか。なんでもクールにやり過ごすことが優しさにつながるのだろうか。

山本芳久(著)『世界は善に満ちているートマス・アクィナス哲学講義』に、「現前する困難な悪に対して立ち向かおうとする心の動きが「怒り」である(131)」という一節がある。

何が悪で何が善かを決めることはとても難しい。だから「悪」だと考えたことがそもそも誤りであることもあるだろうし、その「悪」が自分の中にあることも往々にしてあるだろう。

でも、たとえ他人から怪訝な目で見られようとも「これは私は受け入れられない」と自分を奮い立たせることに怒りが使われるのなら、それがそうじゃない世界を作ることの原動力になるのなら、何かで傷ついた人の側に立つための力になるのなら、やっぱり大切な感情なんじゃないだろうか。

宮野さんは第5便でこんなことを言っている

わかんない、理不尽だと怒ればいい。そんなものは受け入れたくないともがけばいい。

そんなものは受け入れたくないという怒りと、こんなことができたら面白いという高揚を原動力にしながら、そうじゃない世界を冷静に作っていければと思う。

いつ死ぬかはわからないけど、そうじゃない世界を作り、その中で生きてゆくことを目標にしたい。そして自分の真摯さに迷うことがあるときは、彼女と残した言葉に何度でも立ち返りたい。

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