書くことは未来の出逢いに賭けること- 『急に具合が悪くなる』を読んでくださった皆さまへ(最終回)

私、生きちゃってる

「私、生きちゃっている」

8月の半ば、大学を卒業したばかりの女性が、いきなりそんなことを私の前でこぼしました。こういう悩みは俗に「中2病」などと言われて揶揄されがちなものかもしれません。

でも私は思います。この吐露に確かな返答ができる人なんているのだろうかと。この言葉を冷笑する人は、生きる上での実存的な問いから目を背けているのではないかと。

宮野さんは書簡の9便で次のように書いています。

そもそも「生きる」って何なんでしょうね。だって、私たちは誰一人として自分の意思で生まれていません。いつ生まれるかも選べず、強制的にこのようなモノとして一個の肉塊が与えられ、点として産み落とされる。そして、「いつか必ず死ぬ、でも今ではない」と未来へと差し向けられ、時間の中を進んでいくことを求められる

9便 p138

「やりたいこと」、「個性」、「あなたらしさ」といった言葉におそらく小さな頃から囲まれていたであろう20代の彼女が、なぜ「生きちゃっている」という言葉をこぼしたのか。その本質は私にはよくわかりません。

ですが否応なくこの世界に押し出されてしまった不思議さと苦しさを「生きちゃっている」という一言で表現した彼女の言葉に、私は生きることの本質を感じました。

もくじ

言葉が届く時

でもそんな彼女は、「急に具合が悪くなる」を読んで「生きていけそうな気がする」と感じたと話しました。

この本が発売されてもうすぐ1年が経ちますが、これはつくづく不思議な本だと感じます。

この本は書簡の相手という唯一性に向けて綴られ続けた本です。「生きちゃっている」とこぼす彼女のような存在は当然射程に入っていない。でも互いに向けた唯一性の強い言葉が、著者の二人よりも20年近く若い、実存的な課題を抱える若者に届き、「生きていけそう」という力を与えるまでになっている。

このような経験は今回が初めてではありません。この本は、死から最も遠いであろう多くの若い世代に読まれており、かれらが書簡の言葉を引き継いでいってくれるだろうと感じる瞬間に私は何度も何度も出会っています。

唯一性が普遍を照らす

この書簡で語られる唯一性は、「個性」とか、「あなたらしさ」とかいった言葉とは程遠いところにあります。出逢いの以前にははっきりしていなかった自己が他者との邂逅によって一瞬強烈に立ち現れ、それを手掛かりに先に進んでゆく。それは邂逅した他者と一体化することではありません。そうではなく、そのギリギリ手前で立ち止まり、その先に進むことのできる動的な生がここで語られている唯一性です。

自分が著者の一人であるので、このようなことをいうのは少々憚られるのですが、邂逅によって立ち現れる唯一性を足場にした言葉が徹底的に交わされた時、その唯一性は「人が生きることの意味」という普遍に転化するのではないか、そう感じるのです。

そうでなければ、2人の学者の個人的なやりとりがこのような形で多くの人に届くことはないでしょう。

書くことは未来の出逢いに賭けること

とはいえ、企画会議を通過した8便以降からこの書簡には「読者」が想定され始めました。意図したわけではないですが、ここから書簡のテーマは「生きる」に転化します。

人間が利己的であるか否かは、その受取勘定をどれほど遠い未来に伸ばし得るかという問題である。この時間的な問題はしかし単なる打算の問題ではなくて、期待の、想像力の問題である。

9便、p199-200

宮野さんは9便の最後において、戦時下に獄死した、九鬼と同時代の哲学者・三木清の上記の言葉を引用しています。

これまでお話ししてきたように、この書簡はその裏側にある私たちの膨大な言葉のやり取りから生まれています。

私が9便を届けた後、「どう返そう。これは「いき」の話と思ったり」と開口一番言った後、「「いき」の話もしたいけど、三木清の話もしたい」と彼女はしばし迷っていました。

結果、宮野さんは自分の研究の本丸である九鬼の「いき」の話は諦め、三木清の話を選んでいます。

なぜ宮野さんが後者を選んだのか。その理由は明らかでしょう。

彼女は、肉体としてはおそらくもう長くはないであろう自分の言葉が、自分の死後、ずっと先の未来に届く可能性に賭けた。それが「生きるって何なんでしょう」と自身に問う彼女の答えの一つだったんだと思います。

彼女との書簡のやり取りを経て思います。

言葉から打算とリスクヘッジを排することは難しいけれど、それでも勇気を持ってそれらを排する価値はあると。世界に向けて言葉を放つとは、想像力と期待の中で、起こらないかもしれない遠い未来の出逢いと、そこから伸びゆくラインの先に賭けることなのだろうと。

これで22回に渡った連載は完結とします。

書簡に刻まれた言葉を自らの人生の中に落とし込み、そこから新たなラインを引こうとしてくださっている皆様に心からの感謝を申し上げます。

宮野さんと出逢って2年と6日目の夜に

磯野真穂

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